最近息子1がドラゴンボールに興味を持ちました。
誰が誰の子供でどういう関係なんだとしつこく聞いてくるので調べると、悟天も悟飯も悟空の子供だったんですね。
悟天は孫かと思ってました。しかも全員悟空の大中小なのかと思っていたら、悟飯だけは髪型も違うしにネクタイ姿で
インテリキャラとのこと。みんな頭空っぽってわけじゃなかった。
それより劇場版の新しいやつで、孫悟空ファミリーがブルマの誕生日パーティーとやらで一堂に会するシーンが
あったんですが、全部同じ声なのに悟空は大人になった悟空、悟飯は優し気な青年、悟天は悟空よりもさらに
無邪気な幼児の声。年代と人格を瞬時に演じ分けていて野沢雅子すげーってなりました。
ざっくりとドラゴンボールのあらすじを息子1に話していて
「そこでドラゴンボールがやっと7つ集まって神龍が出てきたんだけど、豚のウーロンがパンツくれ!って言っちゃってねぇ。」
「なんでパンツほしかったの?」
「え?」
「パンツ持ってなかったの?(汚れない瞳)」
そのほかにも亀仙人とブルマのおなじみのパフパフシーン、鼻血を出している亀仙人を見て
「なんで鼻血出ちゃったの(汚れない瞳)?」という感じで…息子がホワイトすぎる。
女性キャラ(主にブルマ)も自ら色仕掛けのためにパンツや胸を見せる、
というお決まりのギャグもいっぱい出てくるんですよね、ドラゴンボールは。
それが悟空には全然通じない、というのがパターンで。
旦那はドラゴンボール育ちなので、自分が子供のころこういったスケベネタをどう受け止めていたのか
聞いたのですが覚えてないとのことです。
鬼滅の刃がこれだけヒットしたのも首や腕はバンバン飛んでもエロス要素が一切ないからというのが大きいそうです。
女性キャラは豊満ボディだけどせいぜい善逸が頬を赤らめるくらいでほとんどの男性キャラは目にも留めていません。
鬼殺隊なんて日々命をかけているならそっちの方も血気盛んになりそうなものですが、そういった要素が全然ないので、
遊郭を舞台にしたシリーズさえ安心して子供と一緒に観られました。
昨今はいわゆる「ホワイト化社会」。人種差別、貧困差別、女性差別、容姿批判、ほんの10年くらい前はテレビで
当然にように扱われていたのがここ数年で急激に「笑えない」ものになりました。松本人志のすべらない話の殿堂入りで、
次長課長河本の「姉がレズです。」ていうネタがあったのがもう信じられない
(その後河本自体も笑えない人になってしまいましたが)。
「笑い」が一番大衆共通の空気とか潮流を汲みやすいんでしょうね。
次に波及してきたのが漫画やアニメ。
ドラえもんは発達障碍児への暴力だし、クレヨンしんちゃんは女性が独身だったり年を取っていることを貶すし、
ちびまる子ちゃんは貧困差別がありますね。
Twitterではポケモンの主題歌の歌詞「あの子のスカートの中」の何がいけないのかを自分の子供に滔々と
語って聞かせるお母さんのツイートがバズったり、鳥山明(また出た)が昔描いた、ある女性声優の方のスカートを
めくっているイラストがフェミに掘り起こされて燃え上っていました。
わかる。私も男児の母だから、そういうの子供に見せることにすごく違和感あるし、なんか男子ってみんなスケベよね、
みたいな前提の話が通じなくなっているのはわかるんです。
今ゴールデンタイムに『パンツの穴』とか放映されたら絶対見せませんからね。(私はあれで性に目覚めました)
価値観が変わった、あらゆることにおいて。
でもコンビニから工口本をなくして見えなくしたからって、動画やコンテンツはけしてなくならないわけで。
人間がスケベじゃなくなったら、恋も青春もはたまたリビドーから生まれる芸術作品も、なくなるんじゃないですかね。
でも人はそう簡単に数十年で綺麗になんてなりません。
心配なのは、子供が鳥山明的な「スケベ」を通り越していきなりドギツいコンテンツに飛んでしまう方が
今のメディア社会では現実的にあり得るような気がするんですよね。
男の子も女の子も、クリーンな環境で無菌状態で育ってからのいきなりの大人ワールド。相当な衝撃だと思いますよ。
私の子供のころは、本屋には大人向けコーナーがあり、道には変な本が落ちていて、
テレビではスカートめくったりPORORIしたり、「大人になるとこういうことがあるんだな」と
心構えができたといえばできていました。
親がずーっと目隠しをしてあげられるならいいですが、そういうわけにはいきません。
あとおやっと思ったのが、のだめカンタービレの作者の方が、作中で女たらし的なおじさんがのだめの
胸をつかんでいるというカットを新装版で肩を抱くのに描きかえたという話題。
これはまさに「ホワイト」で修正したわけです。
ご本人曰く、自分で恥ずかしくなったのでという理由だそうです。
どこかから突っこまれるから先手を打った、というわけでもなく自分のためとのことですが、
私は表現者として作品を世に出してしまったのなら絶対そのままでよかったと思います。
その時の感覚で、それで笑ってくれた読者だっていたわけですから。
フェルメールが「いや!こんな女性にばかり家事させてる絵はあかん!」っつって生きてる間に
牛乳を注ぐ女と一緒にじゃがいもの皮をむく男に描き替えたらどうですか。
せっかくの時代の空気がわかんなくなるでしょ。
アートにしてもなんにしても普遍的に受け入れられるものばかりが名作ってことはないんです。
今の時代に照らし合わせたら無しだな〜っていうくらいの方が、歴史的価値は高いと断言します。
私は建造物でも評価は低い、バブル丸出しのビルとかクソダサいデザインの小物とか好きですし。
だからのだめの人も責められるのは覚悟で「今は恥ずかしいと思っていますが、このままでいかしていただきます」と
言ってほしかったです。
まあそんな感じで、他人を傷つけたり貶めたりするような要素は論外ですが、文化くらいところどころグレーを残して
おきましょうよ、というのが私の意見です。落語じゃないですけど業の肯定ってやつです。
寛容な社会を目指すのなら人間の業にも寛容にならなくちゃ。
しかしもしかしたら鳥山明も現代の感覚に塗り替えられているのかなと思って結構最近の
劇場版ドラゴンボールを観ていたら、亀仙人がブルマの誕生日パーティーのビンゴの景品で
「HなDVDはないかの?」って言っていてブレねぇぇ!と思いました。
ビデオからわざわざDVDと言い換えてまでスケベを貫く覚悟〜〜!!
鳥山明、何と言われてももうこのまま行ってしまってくれ。スケベを後世に残すのだ。