11月にフランスのパスカルという男性からメールが届きました。

 

先月開催していた「パラパラマンガ喫茶展」に出展していた

私の「機能不全家族」というパラパラを、日本の友人から送ってもらった。

ぜひ他の作品もほしいからどうしたらいいかとのこと。

パスカルはパリのソルボンヌ大学の先生で、パラパラマンガコレクターである

らしいのです。

世界各国、新旧の膨大な量のパスカルのパーマネントコレクションに

私のパラパラも加えてくれるとのことですぐに喜びの返信をしたのでした。

 

私が得意の適当英語でメールを送ると、数時間後にパスカルから返事が。

英語でのビジネスメールやり取りははじめてでしたが、大概最後を

Best regards,で結ぶだけであとは日本語みたいに恐れ入ったり

ご検討したりご承知おきしたりなどわけのわからん文句は必要ないんですね。

本当に日本のビジネスメールは無駄が多いですね。

パスカルはフランス人だからかもしれませんが、文中で謝ったことは最初に

フランス人ダカラ英語デゴメンネ。だけでした。

日本人、どれだけ謝ってるでしょうねメールの中で。

パスカルはなんでもThank youで片づけるのです。

 

支払いはどうしようかと思いましたが、gmailのアカウントだけで個人間で

クレジット決済ができるペイパルに登録しました。

こっちじゃないですよ。

 

どうせどこかで引っかかるんだろうと半信半疑で進めてみましたが

簡単に相手にインボイスを送れて、向こうが決済してくれたら

すぐに指定口座に入金がありました。すげー!

海外とやり取りされる方はきっとみんなペイパル使ってるんでしょうね。

 

パスカルには在庫あるだけのパラパラを小包にして送ることにしたのですが

郵便局の窓口のお姉さんがEMSという配達法を教えてくれました。

国際小包しか頭になかったのですが、EMSの方が配送料も安く、なんと

パリまで3〜4日で届いてしまうんだそうです。

こっちじゃないです。

 

無事、パリの自宅までzozotownの箱に入った私のパラパラが届いたようです。

パスカルのブログに、フリップスライダーのことも記事にしてくれました。

http://www.flipbook.info/blog.php

 

憧れのフランス、パリに私のパラパラが渡ったことは光栄極まりなく

今年のハイライトともいえる出来事ですが、パスカルがさすがフランス人

いけずだなぁと思うのは、メールのやり取りはマメだしとても友好的なのですが

私のパラパラについての個人的な感想は一言もなかったことです。

ここがいいとか好きだとかじゃなくて、ただ全部ほしいというだけ。

コレクター心理なのでしょうか。

簡単には褒めないというプライドかもしれません。

 

あとヨーロッパの方がパラパラマンガのフィールドは昔からあるにもかかわらず

芸術表現として使われていることは少ない気がします。

あくまで昔から愛されているおもちゃの一つ。

パスカルはフランスの北原照久かもしれません。

 

 

この日記、画像だけ見るとペイペイでシックスパッド買った話みたいですね。

 

 

電車の車内広告で、墨田区に移転した「たばこと塩の博物館」

あれ?「塩とたばこの博物館」?で和田誠の展示をやっていると

知り行ってきました。

 

たばこと塩の博物館(以下、た塩)は渋谷の喧騒を離れたところに

古い建物があり気になっていましたが一度も中に入らないまま

移転していました。話してみたかったけどきっかけがつかめないまま

転校していったクラスメイトみたいな存在でした。

その子が新天地で生まれ変わった様子も見たく、行ってみると

モダンな建物です。

しかも入場料は100円!常設展&企画展もぽっきりで観られるそう。

気さくなところがあったんですね。

常設展というのは主に塩のことをわかりやすく勉強できる展示に

なっていて、どれが伯方の塩かすぐに当てるデジタルマシンが

あったりなかなか面白かったです。

これだけでもそこそこ楽しめます。

 

そして、お目当ての和田誠展へ。

これは和田さんがたばこのハイライトのパッケージデザインを

した縁で、どちらかの周年企画で開催の運びになったらしい。

和田さんを中心としていますが、私が大好きで子供の名前にも

なった宇野亜喜良さんや安西水丸など和田さんと親交の深かった

イラストレーターの作品も絡めて展示してありました。

最初はなんでた塩で和田さんの展示?とでっかいクエスチョンマークでしたが

みていると「たばこ」とイラストレーション、広告美術は

非常に相性がいいんだなということがわかってきます。

和田さんはPeaceの一コマ広告もやっていたそうです。

そういえば私の大好きな『ハートカクテル』も日本たばこの提供だった!

 

共通点はなんでしょう。「短さ」と「孤独」でしょうか。

私はたばこ吸いませんが、たばこを吸うのは自慰みたいな

もので、一人の行為というイメージです。

その隙間に広告が入り込みやすいのだと思います。

たばこ以外にも一人が似合う商品には質のいい広告がつきものです。

ビールはみんなで楽しくヒャッハー!つめてー!うめー!程度で

充分ですが、ウイスキーや焼酎(イイチコと二階堂ですが)は

味わい深いですね。ワインは軽薄、日本酒はエロい広告が多いイメージです。

たばこ産業が広告で新しいことができづらい世の中になってしまったのは

非常に残念です。

 

和田さんの展示に話を戻すと、本業は一応イラストレーターですが

小説やエッセイも書くし雑誌などのトータルプロデュースもするし

映画も撮るしでマルチタレント。

その原点はマンガだったみたいなんです。

小さい頃はずっとマンガを描いていたのです。やはりマンガって

絵、お話、画面構成、デザイン、ひっくるめたコンセプト、

すべてが鍛えらえるんだと思いました。

ほんと上野樹里は太い家に嫁いだよなぁと腹が立ってきました。

天然ぶってますけどね、かなり計算してますよあの子は。

目的はお金じゃないです、DNAです。

 

 

ミュージアムショップも小さいながら面白い品ぞろえで、

図録と切らしていた塩を買って帰りました。

 

 


9/3まで渋谷のアツコバルーにて開催されていた

極限芸術〜死刑囚は描く〜』を観てきました。

ポスターの作品に選ばれているのは、死刑囚アーティストの

広告塔でもある林マスミちゃんです。

マスミちゃんの絵は入口付近に大きく飾られていましたが

想像するよりはまあちょっとメンヘラ気味の女子中学生の

落書きに近いような感じでした。

あと自分をイメージしていると思しき女性のイラストが

出てくるのですが、小顔で目がパッチリしたショートカットの

キョンキョンみたいに描いていました。

まっったくすこっっしも本人に通ずる要素がなく、それでも

自分の中ではこんな可愛い子が「自分だ」と認識しているんだなと

思うとゾッとしました。

「すべての犯罪は『自己認識のズレ』から起こる」という

自説を裏付けるものとなりました。

 

 

そのほか雑居ビルの中のワンフロアの小さなギャラリーに

十数名の死刑囚によるアート作品がそれぞれ展示されていました。

その人がどんな罪で、死刑囚にまでなっているのか説明はありませんが

あの秋葉原の加藤くんもいましたよ。

キャプションにはどの事件とは書いてありませんでしたので

気になる絵は名前をメモして後からググりました。

 

私はいわゆるアウトサイダーアートは大好きなのですが、

その無垢な魂の生み出す作品とはまたちがって

死刑囚アートはいろいろな下心、本人の無念さや野心などが

静かに光っていて腹にクるものがあります。

私が特に惹きつけられたのは、80年代のイラストみたいな

素っ頓狂な一コママンガを、びっしりと塗りつぶした

鮮やかな赤と青と黒のみで描いている松本健次さんの作品群。

家族なのか支援者との文通の中で“手紙用の”赤・青・黒

ボールペンのみを使用しているのですが、横尾忠則風の

センスを醸し出しています。

どんな人なのか気になって、あとから松本健次さんの

起こした事件を調べてみると保険金などの計画殺人で

安易に何人も手にかけた凶悪犯罪でした。

ところがこの人は昔から冤罪を疑われていて、軽度の

知的障害があったことから実兄にひどく扱われており

保険金殺人も実行を兄に命令されて罪を着せられたのでは

ないかと言われているようです。

その兄は自殺しているとか。

冤罪だったとしたらとても気の毒です。

 

 

もう一人、コイツは冤罪じゃなくて本当にヤってんじゃないかと

思ってしまったのは、正面を向いて同じ表情をした

女性像を何枚も描いている金川一という死刑囚。

70年代に熊本で起きた女性の惨殺事件の犯人だそうです。

その絵の女性たちは髪が長かったり短かったりキレイだったりブスだったり

服を着てたり着てなかったりとバラバラなのですが、

ものすごく口角をあげた独特のスマイルを一様に浮かべているのです。

女性に対する見方がちょっと普通じゃないというか、やばいニオイを

発する絵です。

ただこの人も知的障害があり、冤罪という説もあるのだそうです。

 

死刑囚の絵の中には上記のようなクセの強いものばかりじゃなく

ただただ緻密な模様みたいのを描く人や、普通の風景や動物とかを

上手に描く人、模写みたいのをひたすらやる人など様々。

ただ、結局全部の作家の罪状をあとで調べたのですが、そのほとんどが

強盗殺人・強姦致死などの短絡的で衝動的な殺人事件の犯人なのです。

怨恨だとか恋愛などのもつれというのもなく、頭や

感情を要するものというよりは「野蛮な」事件が多いのです。

 

それが何を意味しているかというと、こうした事件を起こして

また疑われて死刑にまでなり、そのうえでアートの才能を発揮する

人というのはやはりどこか知能的に欠陥のある人物だろうということです。

もちろんそういう人だから短絡的な犯罪を起こすファクターがあるというよりは

環境的にそうなりやすい、また疑われても本人が釈明できにくいという

意味でです。

ここでようやくアウトサイダーアートとつながってくるのです。

施設かなにかでアートの才能を存分に発揮させてもらえている人も増えてきて

いますが、その片側にはこういう側面もあるということに気がつくと

非常に胸が切なくなりましたね。

 

アツコバルーは小さなギャラリーですが以前はラブドールのオリエント工業が

展示をしていたり、10月にはアレハンドロ・ホドロフスキー夫妻のドローイング

展示を予定していたりとなかなかポテンシャルの高いところです。

 

 

 

 

 

 

 


1年ぶりとなる行商、文学フリマに出展してきました。

 

もちろん新作はなしだよ(^^)/

出るだけで精いっぱい。ウサギちゃんセイグッバイです。

 

その日はダンナ(敬称略)にワンオペ育児を頼んだのですが、

普段は私が仕事に行くのを手を振って

送り出してくれる心の広い息子が、今回は

私欲のために出かけていくのに気づいたのか

泣いてまとわりついてきました。

しかしそこは心をカンダタにして振り払っていきました。

 

最初は足をとめてくださるお客さんも少なく、仕事の

都合をつけてダンナの嫌がるワンオペを頼んで

泣く子供を置いてきてまで私は何をやってるんだろうかと

自責の念にかられました。

確か育休中に一度まだ乳児だった子供をダンナに

預けて出展したときも、乳パンパンにして痛い思いしてまで

何やってんだろって感じでした。

いつもいつもなんですが、最初の一点が売れるまでは

舞台の上に間違って上がってしまった一般人みたいな

心境で、ああ来るんじゃなかったと思います。

その後次第にお客さんがぽつりぽつりと反応を見せて

くれたり、ありがたいことに買ってってくださる

人も出てきてやっと報われた思いでした。

 

そのほか3、4年会ってなかった友人や、普段はネット上で

からむことの多い人や、仕事でつながりがあった人に遭遇したりと

収穫も多い一日でした。

 

しかし私が行商をはじめて、デザインフェスタやコミティアに

出ていたのが10年前。

そこからやっぱり客層だったり、人の反応だったり、売れ方というのが

変わってきているし、変わって当然というものです。

文学フリマは比較的ずっと一定で、ターリー屋のカレーも変わりませんが

デザインフェスタなんて今出たらどんな惨敗を期すのか想像するに恐ろしいです。

体感的にはやはりこのインスタント時代、スピード感を求められているのかなって

気がします。

パッと見ておもしろそうだと誰でもわかるもの、ターゲットがはっきりしているものが

ウケやすい。

私も直感型なので、基本的に短編や短歌など短いものが好きだし、これは

自分が求めているものだというのは一目でわかるし大体外れません。

ただ困ったことに、一瞬で選んだものを一瞬で手放してしまう時代でも

あるのかなと思います。

私は自分のパラパラマンガは、10秒くらいで終わるけれど、その断片が

ずっと心に引っかかったり、終わったあとも考えている時間は長いもので

あってほしいしそういうものを作っていきたいと思っています。

イージーカムイージーゴーの時代に、実は逆行しているのかもしれません。

 

まあ新作も出さずに何言ってんだよって感じですが。

とりあえず次回(11月)には新作を携えてまた参加します。

 

 

 

大学時代の担当教官にすすめられ、一度訪れてみたかった

栃木の那珂川町というところにある美術館「もうひとつの美術館」に

行ってみました。

 

 

明治36年から平成13年まで現存していた小学校の廃校を利用しています。

風の又三郎の世界ですよ。どっどどうど…

建物の外にも至る所に作家の作品とおぼしき陶器の動物やら人形みたいなものが。

校舎の入口を通ると壁に一面描かれたコラージュのようなカラフルな絵。

手前にはギャラリーショップと受付、事務所がありました。

 

展示スペースは元教室。

そのときやっていたのは栃木県足利と岩手県花巻にある二つの施設

「ルンビニー園」に所属する作家たちの作品を集めた展示でした。

年代も性別もばらばらの作家たちなのですが、とにかくどれもこれも

クセがすごすぎて、これが誰の真似でもない(本人は何かを模写している

ものもあるのですが)ということにまず感動します。

 

またこの美術館の館長の女性が一人一人の作品についてつけた

短いコメントがまたよくて、それを読むとまた見えるものも違ってきました。

 

<コメント抜粋>

ずっと部屋で自分一人のためにノートに人の顔を描いていました。

その作品が多くの人の注目を集め、海外でも評価されるようになりましたが

本人はそういったことには関心を示さず淡々と制作していました。

おそらくもっと大切なこと、希求してしていたことがあったのではないかと思います。

 

ペンや鉛筆をもつと不思議な線を書き連ねていきます。描かれているひとつひとつの

部分は字のようにも見えますが、本人に何を描いたのか訊くといつも「おかあさん」と

言います。どこがどう母親なのかは本人にしかわからないことです。

 

彼の手の中で粘土は命を宿し、動物や女性のかたちを為す。もっとリアルに形や

躍動感を再現できる作り手はきっといるに違いない。それでも彼の産み出す動物たちは

私たちが知ってるリアルさはないが、その動物の本質を徹底的にかたどっている

ように感じられる。

 

自然や身の回りのものを必死に模写したり、悩んでは消し、消してはまた描きを

延々と繰り返す作家もいたそうです。

誰に頼まれたわけでもない、なんの下心もない創作活動に一体どんな試行錯誤が

あるのか興味が尽きません。

粘土の動物は村井洋さんという人の作品。もうひとつの美術館の中でもアイコン的に

各所に散らばっていました。そのフォルムは館長さんのいうとおり、無邪気で

デフォルメされすぎた形のように見えるのですが、もうなんかすげえかわいいんですよ。

アウトサイダーアートこそ真の芸術だ、と私なんかは思うのですが、そうやって

区別することはかえってよくないのかもしれません。

健常者も、障害のある人もみんな表現すればええやん。それがアートやん。という方が

彼らにとって一番しっくりくるスタンスなのでしょう。

 

が、しかしやっぱりどうしったって絶対に敵わない「なにか」を彼らは持っているわけで

ただただ圧倒される美術館です。

栃木県の里山の中にあり、アクセスはよくありませんが定期的に気合の入った

展示を行っていますので、ぜひ一度訪れてみてください。

校庭で風の又三郎ゴッコもできますよ。

 

 

 

花散らしの風が吹き荒れまくった日の翌日、
「ハラドキュメンツ 10」開催中の原美術館に
行ってきました。

この展示のメインは佐藤 雅晴さんというアーティストの
映像作品です。これがとてもおもしろくて、実際の街の景色を
定点で撮影した映像に、一部分だけをトレースした
アニメーションにしているのです。

渋谷のスクランブル交差点を何人かアニメーションの人間が通り過ぎたり
実写の人間がアニメーションの柴犬を散歩させていたりと、現実と虚構が
わけわかんない感じになる、とても静かで、少し不気味な作品でした。
ギャラリーで自動演奏されているドビュッシーの月の光も、うららかな春の午後の
原美術館にぴったりでした。


ハラドキュメンツではそれだけではなく、工場の写真を撮り続けている
ベルント&ヒラ ベッヒャー(ヨダレが飛びました)などいい感じの作品が
展示されています。
中でもアートという点ではどうかわかりませんが、おもしろかったのが
パリの女性アーティスト、ソフィ・カルによる 「限局性激痛」 という
作品です。
これは彼女自身が大失恋を経験し、それを3か月の間毎日のように出会った人に
話して、相手からも一番辛い経験を聞くという構成になっています。
ソフィ側はずっと同じ話を繰り返すのですが、その文章が黒い布に白い糸で
刺繍されていて、タペストリーのようにずらーっと飾られています。
最初は好きな男性に一方的にフラれてしまった出来事を、悲劇味たっぷりに
長々と語っているのですが、段々と内容は投げやりなものになっていき、
文章は短くなっていき、それにつれて刺繍糸の色が濃くなって黒い布に
同化していきます。
最初は未練を感じていた相手の男性にも怒りや軽蔑が表れはじめ、
彼女が少しずつ立ち直っていっていることが見て分かります。


私はかねてから失恋からの立ち直りに際し相手への気持ちの変化は
男性と女性ではまるっきり逆だと思っていました。

・女性は相手の不幸を願えるようになったら吹っ切れた証拠
・男性は相手の幸せを願えるようになったら吹っ切れた証拠

ということです。この作家は女性なので、やはり自分にとって
完璧な相手であった恋人が、ズルい男らしくない奴だった、
ほんとにムカつくわ、もういいわあんな奴、と心境を変化させています。
これが非常に女性的。
一方もし作者が男性であったなら、最初の方は「俺をこんな目に
合わせるなんてなんてひどい女だ、どうしてくれよう」という
気持であっても、最後は「まあどこかで元気でいてくれや」で
終わるんじゃないでしょうか。

よく彼氏が前の彼女のことをよく言っている(優しかったとか)のを
聞いて「まだ好きなのかしら、キー!」となる女性がいるかもしれませんが
それは違います。彼女の現在の幸せを願っているなら、本当にどうでもいい
存在になっているということです。逆にビッチだったとかひどい女だったとか
言っている方がまだ未練があります。
女性の場合は「彼ってダメな人だったけど優しいところもあってね」とか
「今なら許してあげる」とか言ってるうちはまだ忘れていません。
「プレゼントのセンス最悪だったわ」とか「3000円返してもらってないわ」とか
ディスっていればもう過去の人。
この持論は学会で発表してもいいくらいです。

ソフィ・カルの作品、ぜひ男性バージョンも観てみたかったですね。

 「ハラドキュメンツ10 佐藤雅晴―東京尾行」
会期 2016年1月23日[土] ― 5月8日[日]
会場 原美術館 ギャラリーI、II、他
ギャラリーIII、IV、V、他にて 
「原美術館コレクション展:トレース」(ソフィ カル、森村泰昌、ベルント&ヒラ ベッヒャー、他)を併催


 

早いもので、私がパラパラマンガ作家を自称するようになってから
10年、処女作を作ってから13年が経ちました。
その間、鉄拳さんをはじめとしたブームが到来し、そして
ゆるやかに過ぎ行きました。
でも例えるなら『あまちゃん』が大ヒットして以降の
朝ドラもずっとそこそこの視聴率が続いているように
パラパラを作る側も、固定ファンも一定数確保されたような
感覚を持っています。
元々趣味で作っている人はいっぱいいましたからね。
実に様々なパラパラマンガが世に出回っている中で、改めて
私自身がなんとなくこだわっている点を挙げてみたいと思います。

tamaxのパラパラ“5ない運動”

1.色をつけない
絵の色は最低限の2色くらい、モノトーンにしています。
これは私の考える「パラパラマンガらしさ」を失わないため、
アニメーションとの差別化のためです。
いつもノートの片隅に描いたパラパラマンガとかけ離れてしまわないよう、
「アニメを紙に落とし込んだもの」にならないよう気をつけています。

2.書き込まない
これも1と似たような理由ですが、あまり絵を書き込んでも一瞬で過ぎ去る
パラパラマンガでは意味がない気がするので、人物なども顔が必要ないときは
表情を描きません。


3.動きすぎない
え?パラパラマンガなのに?と思いますが、パラパラマンガで一番おもしろい感じが
するのは動いているところと動いてないところが混在していることだと思います。
なのでフレームの中で全てが動かない方がかえっていいと思うので、あえて
ストップした絵を入れるようにしています。

4.長すぎない
手ではめくれないくらいの長編を描く人もいますが、私は大体いつも1作品100枚前後
厚みにして約1.5cm、時間にして20秒くらいを規準にしています。
手でめくれないとパラパラらしくはないですし、ちょうどいい長さだと思います。


5.重すぎない
人生や世界平和、家族の絆、何を表現するかは自由ですが、私はパラパラマンガの
性質上、そんなに壮大なテーマは似合わないと思っています。
私自身、新作を考えるときは、アイデアからどんどん引き算をしていって、
シンプルにまとめるようにしています。


以上が5ない運動でした。
ただパラパラマンガは作る側にとっても見る側にとっても
コスパが悪いので、爆発的には普及しないんですよね。
作る側:一個作るのが大変な割に値段は高く設定できない
買う側:一瞬で終わってしまって何度も観るものではないのに文庫本よりも高い
作る側のコスパはまあ、根性でどうにかできますが、買う側のコスパ問題の
解決策としては値段以上の価値を数十秒の中に込められるかというとこですよね。
今で言うと「シェアしやすい」とか「キャッチーでみんなにすすめやすい」とか
そういう付加価値があれば一冊1000円とかするパラパラマンガを買おうという
気もおきるかもしれませんね。
もう一つ、違った価値があるとしたらそれは「スティング」でしょうね。
私の大好きな言葉「スティング」。
ただおもしろかったね、可愛かったね、で終わらない心に引っ掛かりを残していくような
問いかけや謎が残るようなチクりと刺す痛みはパラパラマンガにとても似合うと
思っているのです。
それがあれば、誰かとシェアできなくとも、買った人が何度も見て何か感じてくれるなら
文庫本より高い価値があると思います。






 
又吉さんが本当に芥川賞受賞してしまいましたね。
芥川もびっくりしてるんじゃないでしょうか。
サッカーでもいいところまで行って売れっ子の芸人で
芥川賞作家で・・・。
西村賢太さんや田中慎弥さんはどう思ってるんでしょうね。
お笑い芸人は結構なんでもできちゃう人が多いですけど
小説家だけは、この人から小説取ったら何も残らないよねって
いう人になってほしいと思うのはもう古いんでしょうか。

最近読んだ本について。
『アーティスト症候群 大野左紀子』


痛快というのはこういうことだと思える面白い内容でした。
痛くて快いんです。それは私自身10代の頃から「アーティスト症候群」の
一人だったからでしょう。

最初は芸能人の「アーティスト」活動について。
八代亜紀やジュディ・オングのバタくさい本気のおばさん絵画。
工藤静香の微妙に人をイラつかせるヤンキーファンタジーはデコトラに
描いてあるのが似合うとか。
元抱かれたくない芸能人ナンバーワン、片岡鶴太郎の器用に
不器用を演じているエセ画伯ぶり。
藤井フミヤや石井竜也の一見かっこよさげだけど中身がスカスカな
アートワーク。
芸能人のアート活動ってどれももやっとするけど、米倉斉加年だけは
オッケーというあるある。
ヒザを打ちたくなる考察がまとめられています。

ここまでは単純にゲハゲハ笑って読めるのですが、段々心が
キュっと痛んできます。
懐かしい番組『たけしの誰でもピカソ』のアートバトルについてのくだり。
私は当時あの番組を観ることができませんでした。なぜか目をそらしたく
なってしまうのです。

そして芸術大学で学生を教えてもいる著者の見る、最近の若い子たちの
目指すもの。それは「クリエイター」。現代っ子は現実的ですから
食えないことなんかしませんからね。私が大学の頃はまだアーティストの
方が学生たちの憧れカーストではトップでしたが、今は断然クリエイターでしょう。
オレ(私)のセンスでなんとなくかっこいいことができて有名にもなれて
お金も儲かるイメージ。対象はなんだっていい。
この辺りは思い当たることが多すぎて打っていたヒザががくがく震えてきましたね。

そして、今私が一番気になっているのが「ガーリーなものづくり」の世界。
デザインフェスタやなんかを見ても10年前に比べて明らかにこのガーリーな
雑貨がどんどん領土を拡げてきています。
この本が出されたのはもう7年前なので状況はだいぶ変わってきていますが、
今巷のちょっと「私のセンスを発表したい」手先の器用な女の子たち(おばさん含む)が
ハマりがちな雑貨とか手作り市の走りがすでに鋭く見抜かれています。
そしてそのルーツが美術出版から出ていた雑誌『みづゑ』だったんです!
超わかる!捨てようと思っていた2003年のみづゑを本棚から引っ張り出してみたら
「お店やさんはじめます」とか「雑貨のつくりかた」とか絶妙にひらがなの
混じった発疹が出そうなタイトルが並んでいました。
こんなん買ってたんだよ私も!!そう、みづゑ、みづゑなんだよ…。
ちなみにみづゑに応募した作品が掲載されたことがあるのですが、
その作品を返してほしいかって聞かれたから返してほしいって言ったのに
返してくれなかった、そういう会社です。



その2003年頃のみづゑ「お店やさんはじめます」には、まだ自分の作った
なんとなく可愛い私らしい雑貨を売るためにはネットショップを自分で開設するか
楽天市場などに出店するとまでしか書いてありませんでした。
でも今そのニーズを掬い取って成功しているのが、minneやiichiなんですね。
女子が誰しも心の中に少しは持っている「アタシらしいかわいいものをあつめた
おみせやさんをひらいて、またすこしかわいいものをかえるくらいのおかねが
ほしい、でもめんどうなシステムのかいはつやじむてつづきはしたくない」って
いう欲望を見事に満たしていますよね。
最近お昼の主婦向けの番組でオススメの副業として第一位がminneやiichiでした。
みんながあえて自分では作ろうとしない、そこそこ可愛いものを安くたくさん
売って稼ごうというもの。あの頃のみづゑ精神はもうそこまできているのです。

本を通して一貫しているのは「自分は特別なはず」というどうしようもない気持ち。
私も10代〜20代前半、この気持ちに本当に悩まされました。
何ができるかわからない、でも絶対に自分は人より何かが優れているはず!!
このイタさ、どうしたもんかね。
忘れもしない大学の進路で悩んでいたころ、親と言い合いになって、思わず母に
向かって「お母さんなんてただの主婦じゃん!」と言ってしまったことがあります。
あの頃の自分にアッパーカットしたい。
今となっては確信できます、母の方がずっと優秀だった。
そんな言動ができてしまうほど、バカでした。本当に。
大学でもそんな気持ちとの闘いでした。でもいわゆるオシャレでナウいクリエイター方面への
就職が敵わず、普通の会社でなんとか活かしてもらいやっと目が覚めました。
パラパラもまあ、爆発的にみんなに評価はされないけど、たまーに
気に入ってくれる人もいるし。私にできるのはこの程度。


あの自分の能力以上の何かができそうなやっかいな予感からは解放され、
やっと今は精神的に落ち着いて制作ができています。
とは言いつつ実はいまだにほんのちょっとだけ、そういう欲望はまだ潜んでいるんですけどね。
そういう人には本当に毒にもクスリにもなる本です。

もうみづゑは資源ごみにまとめて出してしまいました。
でも私の作品がちょっとだけ載っている号だけは捨てられませんでした。
つまり、そういうことです・・・。


















 
訓練のため(?)子供を連れて外出をよくしています。
子供の初デパートは渋谷東急本店!
初カフェはMOTOYA(初台)!

大抵グズり出して帰ります。いつもお騒がせしてすみません。

そして初美術館は国立新美術館にて開催中のマグリット展。


新美術館は月3回、専門スタッフによる託児サービスを
行っているそうですよ。
つまり、展覧会観たければ預けてどうぞってことなのかも
しれませんが、ビクつきながら抱っこひもで同伴入場。
聞くところによるとマグリットは有名なのでデート目的の
カップルや若い女の子でごった返してるとのことですが
平日の開館すぐを狙ったのでとても空いていました。
お客さんも有閑マダムや一人で来ている男の人が多かったです。

空いているので自由に絵が鑑賞できましたけど、その分
シーンと静まりかえった館内に、わが子のキィヤァァァ!という
奇声ととてつもなく不満げなため息などが時折こだまして
ハラハラしました。
時限爆弾を抱えているみたいでした。

マグリットの絵には所々マグリット本人による注釈がついて
いたのですが、「こうこうこうだったんだけど、ある日こう
ひらめいたんだ!」みたいなことが難解な文章で書かれています。
文章はわかりにくいんですが、私はマグリットの作風に
インスパイア(丸パクり)されているのでマグリットが何を
いつも閃いているのか肌でわかります。
本当です。

若い頃のマグリットが自分のスタイルをいったん確立したときは、
海岸と巨大な鼻、とかシュルレアリスムの延長で全く関連の
ない物や言葉の組み合わせで不思議感覚を引き起こすというものでした。
が、本人曰く運命の日、「あるひらめき」を体験したときから
微妙に変わったんですね。

マグリットおじさんが夜中にモニャモニャ目覚めると、部屋の
鳥かごの中にいるはずの鳥がおらず、その代わりにあるはずのない
卵が見えてしまった。それは完全に見間違いだったのですが
そこでマグリットおじさんはひらめいた。

何を閃いたかっていうと、落語を嗜まれるお友達に教えてもらった
「地口」ということだと思うんです。
いわばシャレのような感じで、似た要素を持つモチーフを、関連性を
持たせつつどこか一点を変えたり(大きさや色など)することで
概念にゆらぎが生まれることです。

たとえば私の作品で解説すると、このワインという絵、ただしくは
タオルホルダーは、ひっくりかえったグラスから、タオルがまるで
ワインがこぼれているように見えるという仕掛けです。
このギミックには二重の意味が生まれ「こぼすもの(液体)」と
「拭くもの(タオル)」という相反するものの立場が入れ替わっている
構造になるわけです。


また、これも昔の作品ですが「花の名前」。


花瓶は花の墓場であるということから、墓石のイラストが焼き付けて
あるのですが、そこにさらに「リリー」や「デイジー」といった
女性の名前にも使われる花の名称が刻まれていることで、
より意味深なことになるわけです。

マグリットのひらめきもつまりこういうことなんだと思います。
私がマグリットをパクってきた方向性は間違ってなかったんだなと
この展示を観てわかりました。










 
先週開催されたトーキョーアートブックフェアに、初日と二日目参加してきました。
初日といっても15時からのレセプションパーティーを兼ねていて、レセプションなんて
みんなひやかしだし、それで一日分の参加費が取られるなんて損だなぁと思いました。
第一希望の2日目・3日目は外れてしまったのですが。
場所も端っこの部屋で周りも結構地味なブースが多く(私を含め)、きっと有名人や
オシャレ外人は目立つところに配置してるんだろうなと憎々しく思いました。
が、話によると今回出展そのものが抽選で落ちてしまって適わなかった人も多いらしく
出られるだけありがたかったのかなと思います。

こういった金さえ払えば誰でも出られる即売会はいろいろと参加してきましたが
私の体感したマトリクスはこんな感じです。

見えにくいですが、TABFは頭悪いけどオシャレな奴らが集まってる感じ。
デザフェスはいろいろあるんでしょうが統計するとカオスでバカです。
文フリとコミティアは人によって感じ方は違うと思いますが
文フリの方があまり体裁とか見た目にはこだわっておらず、コミティアは
オタクも多いけどクリエイター系の出展者が多いのでシャレオツ寄りに
いたしました。
こうしてみると残念ながら私がピッタリくるイベントはなかなかないんですよね。
オシャレではないけどそれなりに気は使っているし、どっちかっつーと
インテリ受けがいいので文フリが一番近いかなとは思います。

隣のブースは韓国人のおばさんで、韓国から一人参戦ということで日本語も
話せないのにとてもフレンドリーで2日間お互いカタコト英語で仲良くなりました。
私の目ヤニをいきなり手で取ってくれるような優しい人で、作品も慰安○とかじゃなく
センスがよくて、なにより物怖じしないところがすごいなと思いました。
一人なのに積極的に近所のブースの人のところへ行ってはコミュニケーションしたり
自分の作品を紹介したりしていて。
ただ日本円のお釣りをあまり持ち合わせておられなかったようで、私が何度も
両替してあげてたら「You are my bank.」と言われました。

You are my bank!bank!
いつもすぐそばにある
くずせないよ
万札と五千円〜

おもしろいおばさんだったなと思っていたら、後日韓国からわざわざメールまでくれました。
以前、5時に夢中で岩井志麻子さんが言ってたんですが、岩井さんが昔中国で
仕事をしたときにいろいろあって車の中で落ち込んでいたら、中国人の運転手の
おじさんがそっと上着をかけてくれて、物も言わずに慰めてくれたんだそうです。
そのおじさんのことがあるから、中国という国自体には問題はあっても
心底嫌いにはなれないと。
私もバドミントン風問題とか韓国は元々好きじゃありませんでしたけど
多分あのおばさんと出会ったから、私も今後心底嫌いにはなれないんじゃないかと
思います。
国際問題ってそういうことですよね。

TABFは出展者にもお客さんにも外国人が多いですから、コミュニケーションハイに
なりたい方にはオススメです。
また隣の隣のブースは名古屋から参加している人だったんですが、外国人の
お客さんに「NAGOYA is middle of JAPAN」と説明していて、やっぱり名古屋の
人はそう思ってるんだと確信しました。