先日はジョディ・フォスター監督のビーバー映画を観ましたが、
今度はニコール・キッドマン製作のラビット映画です。


幼い息子を事故でなくした夫婦と、加害者の少年の物語。

これは、人によって違う「悲しみ方のセンス」の話です。
まだ小さい一人息子を交通事故で亡くす、という悲惨なことに
なった夫婦。二人して同じ悲しみを背負ったはずが、
悲しみ方が違うので夫婦仲に危機が生じます。

ここであなたの悲しみ方診断テスト!
悲しいことがあったときどうする?
‘韻厳亳海鬚靴真佑筺⊃討靴た佑墨辰鯤垢い討發蕕ΑA
家族や親友でもあまり人に会いたくない B
スポーツなどで気分転換をする A
い困辰箸修里海箸个り考えてしまう B
イ修里海箸鮖廚そ个靴撞磴い燭蝓∋廚そ个里發里麓茲辰討く A
思い出してしまうのがイヤなので、目につかないようにする B
Ъ分が悲しんでいることを周りに打ち明け、慰めてもらいたい A
平気なフリをして強がってしまう B

AとB、どちらが多かったですか?
この夫婦の場合、旦那さんはAタイプ、ニコールはBタイプ。
旦那さんは死んだ息子の部屋や壁の落書きも全て生きていた頃のまま
取っておき、毎晩動画を観て号泣している。気分転換にスカッシュを
したり、子供を亡くした人のグループセラピーやなんかに参加したがる。
そのくせ、次の子供を作ろうと言ってくる。
それに対してニコールは「うわぁコイツの悲しみ方、センス悪っ」と
引いてしまうんですね。
一方ニコールは息子の形跡は目につかないように片付けて、思い出さないように
しているけれど、その実、常に悲しみに囚われてしまっている。
グループセラピーなんて鼻で笑い、家族や旦那さんに対しても素直になれない。
亡くした息子がいるから、次の子供なんてもう考えられない。
 
二人で支え合って乗り越えていかなくちゃいけないのに、お互いの悲しみ方が
気に食わないものだから衝突するようになり、旦那さんはついついグループセラピーで
出会った別の女性と、ニコールはあろうことか加害者の少年と接近しはじめる。
ニコールが自分の家族にはツンケンしているのに、加害者の少年には恨んでいないような
ことを言ったり、彼が描いているマンガを褒めたりして優しく接する。
この行動が謎なんですけど、私はよく分かるような気がしました。
もちろん旦那さんは信じられない!と言うんですけど(当然ですが)。
恐らくニコールは、旦那さんよりもその少年と「悲しみ方」が似ていたんですね。
 
少年ももちろん加害者になってしまったことで心に深い傷を負っている。
それを手数が異常に多すぎるマンガを描くことで自分の中でもがいている。
ニコールも無駄に手の込んだ料理を作ったり、庭いじりをしたりしながら
一人で受け止めようとしています。


まあすったもんだがあるんですけど、最後はほんとに向き合うべきなのは
夫婦二人だねって感じで終わっていきます。

「悲しいこと」があったときの人間て不思議だなぁと思います。
上記のセンスの違いもあるし、同じ悲しみを複数の人間が背負った場合、
なぜかお互いが立ち直っていくのを阻む心理がありますよね。
片方が立ち直りかけると、「え?もう立ち直るの?もうちょっと悲しもうよ。
私はまだこんなに悲しんでるよ」みたいな悲しみの張り合い。
光市の母子殺害の悲惨な事件、残された男性が再婚していたと知ったとき
「ええ??」と思いませんでしたか?充分辛い目にあって、闘ってきたのだから
再婚したら喜ぶべきなのに、どこかで少しだけ「ずっと悲しんでいてほしい」って
思いませんでしたか?私は思いました。
それと同じような心理。

私も昨年愛猫を相次いで亡くしたのでとても共感できるところがありました。
わたしはニコールタイプなので。
旦那さんみたいに外に悲しみを放出していけるタイプと、
ニコールみたいに内へ内へといってしまうタイプ。どちらも同じように
悲しんでいることに変わりはないのですが。
ニコールがスーパーマーケットで小さい息子のいる母親と口論になって
思わずビンタしてしまい、一緒にいた家族が
「すみません、彼女は子供を亡くしたばかりで・・・」と言うと
ビンタされた母親が「知るかよ!」って言うんですが、そうなんですよね。
他人にとっては「知るかよ」なんです。
だからやっぱり自分が悲しみと付き合っていくしかないんですよね。


ベッドサイドの猫たちの遺影。ようやく写真を飾れるまでになりました。
 

メル・ギブソンが鬱になって左腕にビーバーのパペットを
装着する映画を観ました。
『それでも、愛してる』
ジョディ・フォスター女史が監督出演しています。

たまたま拾ったビーバーを、ミギーならぬヒダリーとして
左腕につけてみたら、あら不思議。今まで押し殺していた
感情を外に出せるようになった。ポジティブに行動できるようになった。
子供や奥さんとも自信を持って接することができるようになった。
傾きかけていた会社もヒット商品を出して持ち直した。
いいこと尽くし!
でも常にビーバーは一緒。人格はビーバーに乗っ取られかけている。
父親を忌み嫌う長男にだけは訝しがられている。

冷め切っていた妻(ジョディ)ともうまくいきはじめるも、
妻は本来のメルギブに戻ってほしいと思っているため、
ビーバーを外せという。押し付けがましい思い出アルバムを見せたりして
余計欝を悪化させる。正しいのはビーバーなのか、家族なのか。
悩んだ末にメルギブのとった行動はやめてぇぇぇぇぇ!!

日本語タイトルは心温まる家族愛の物語、みたいに思えて誤解させますが
恐ろしい映画でしたね。
本当の味方は家族なのか、自分の本心の現れであるビーバーなのか、
わからないところがいいです。
普通のお涙頂戴であれば、ビーバーをつけたこともあったけど、やっぱり
家族の愛があったから立直ったよ。家族万歳。みたいになりますが
メルギブが鬱を発症してしまったひとつの原因は、恐らく家族のせいでもあるのです。

ビーバーを外そうとするメルギブに向かって、ビーバーは
「おまえの本当の理解者はおれだけなんだぜ?」(メルギブ自身が言ってるんですが)
と言うんですが、結局メルギブは極端な始末をしないとビーバーを外すことが
できなかった。それはビーバーが、自分自身であるからです。
妻のジョディは明らかに間違った考え方を持ってるし。

せめてもの救いは、メルギブとメンタリティが似ている絶賛同族嫌悪中の
長男だけが唯一の理解者であったこと。
日本語のタイトルはなんだかどこかで聞いたことのあるようなつまらない
タイトルですが、『それでも、愛してる』の『それでも』を違う意味で
考えたら結構深いタイトルになるなと思いました。

ラストも後味が悪く、ジョディ・フォスター監督はやはりただの
レズビアンじゃなく頭のいい女性だなぁと思いました。
そしてメル・ギブソンですが、完全にナメていました。
鬱演技が素晴らしかったし、何よりいっこく堂並にパペット使いが
うまく、生きているようにビーバーを操っていました。
後に調べたら左利きだそうです。この役はメル・ギブソンしか
いなかったわけです。

 この虚ろな表情。
25日のクリスマスの朝、会社に向かっていたら渋谷の道路の
脇に人糞が落ちていました。
メリークソスマスを本気でやるとは。
聖夜だなんて気取っても道に人糞ですよ。


夜ふかししていたら映画がはじまって、けっこう
おもしろかったので最後まで観てしまいました。

『ビフォアサンセット』
1995年に撮られた『恋人までの距離〜ビフォアサンライズ〜』という
映画の続編のようでした。
イーサン・ホークとジュリー・デルピーと主役も一緒。
アメリカ人のイーサンとフランス人のジュリーがウィーンで偶然出会って
恋に落ちる1日だけを描いた話だったそうです。
運命を感じた二人は何年後かにどこそこで会おうと約束して別れる、
『ビフォアサンセット』はその後の二人が再会するところからはじまります。
ジュリー・デルピーは『汚れた血』ではじめて見たときからなんて
すごい美人だろうと思ってましたけど、随分痩せちゃって、巨乳も
すっかり垂れて中嶋朋子っぽくなってました。


イーサンは二人の一夜の恋のことを小説にして成功し、その本を引っさげて
フランスへやってきて講演会をし、そこへジュリーが現れる。
再会した二人の最初の腹の探り合いがおもしろかった。
あーこういう男女のやり取りによる駆け引きって、電車の中でよく
聞くよなーという感じ。
お互いが約束の場所に行かなかったことをまず確認し(自分だけ行ってたらみっともないから)
現在の状況を確認し(イーサンは既婚、ジュリーは独身だけど彼氏あり)
そしてお互いどれぐらい今も自分を好きか確認する。

この確認事項を実に自然な二人の会話だけで少しずつ引き出していくのがうまい。
終電間際の千代田線で既婚の女性と若い男性が今夜どうするかみたいな
攻防を目にしたことがあって気持ち悪かったですが、なにせ舞台が西日暮里じゃなくて
パリなのでスマートです。

そんな中で結局二人共お互いのことを忘れていなくて、もしかしたら
もっといい人生があったかもしれない分岐点としていつまでも根に持っていることが
少しずつわかってきて、ラスト、イーサンがアメリカの妻子のもとへ
帰るのか、それともこのままパリに残るのか五分五分な感じで終わっています。

とてもおもしろかったし完璧な出来だったけど、この二人にはあまり好感が持てなくて
こういう相手がいる人はぜひ本当に全てを捨ててやってみていただきたい。
一番嫌なのは結局安定した元の家庭に収まって、お互いを永遠に美化したまま
忘れないでいることですよ。
そんなに運命だったらやってみなさいっての。
絶対にうまくいかないんだから。

でも面白かったです。80分の短い映画ですが30分くらいに感じました。
わけあって『機能不全家族』というワードの意味を調べていたら、
機能不全家族で育った子供の特徴というのが書かれていて、
それが『若草物語』のキャラクターとぴったり一致していて
怖くなりました。

機能不全家族というのはいろいろな家庭の事情で、家族としての
歯車が狂っている状況を言います。
そんな中で子供たちは生き延びるために、「役割」を演じるように
なるんだそうです。

■「ヒーロー」:「優秀な子」「しっかりした子」でいることで評価されようとする。
 マーチ家の長女・メグ

■「スケープゴート」:攻撃的に振る舞い存在を主張すると共に家族の中の本来の
問題から目をそらす役割を果たす。
 ゴリゴリの次女・ジョー
■「リトル・ナース/ロスト・ワン」:「優しい子」「思いやりのある子」として、
親の愚痴を聞いたり面倒をみる。自分が受けるべき注目や愛情を他人にまわして家族を安心させる。
控えめすぎる三女・ベス
■「ピエロ」:おどけて家族の緊張感を和らげる。問題を分散させるために注意をそらす役割。
落ち着きの無い行動をとり情緒不安を抱える。ペットのような存在。
落ち着きのない四女・エイミー

4人がかりで問題から目を逸らそうとしていたマーチ家の闇ってなんだったんでしょう。

もうひとつ闇の深いおとぎ話『ラプンツェル』がディズニー映画になった
『塔の上のラプンツェル』を観ました。
昔ティモテっていうむちゃくちゃ髪の長いリカちゃんみたいな人形持ってたんですが
それにそっくり。
ラプンツェルは本当は城のお姫様で、髪の毛で人を若返らせる力があるために
悪いばあさんに赤ちゃんの頃にさらわれて、塔の中でモラルハラスメントを
受けながら育ちます。
この悪いばあさん(中島知子似)の描き方がとてもリアルで、実際こういう
一見子供を可愛がっているようで自分を押し付けている母親っていそうな
感じがしました。
それに「また私が悪者なのね」とか「はいはい、じゃあ悪者になりますよ。
なればいいんでしょ」みたいな表現が出てきて、そのへんも今までの
ファンタジーを逆手にとってるような大人向けの表現がありました。

結局悪いばあさんは本当の母じゃなくて、ラプンツェルの髪目的なので
倒されて、お城で待ってる本当の両親のところへ帰るわけなんですが
ラプンツェルの継母は身勝手な毒親だけど、実際ラプンツェルを
18までちゃんと育てたのは彼女だし、いなくなったら必死こいてすぐに探し出しました。
城の中でランタン飛ばして泣いてるだけの王妃さまより、良くも悪くもずっと『母』だったんじゃないでしょうか。
継母の方がほんとの『母』だったからこそ、そこから解放されることに意味があるわけだし。

そんなこと言っていたら、なんとあのティモテが19年ぶりに復活していた!
http://timotei.jp/
スウェーデン製のオーガニックシャンプーだったんですね。ずいぶん先駆けてたんですね。
映画を立て続けに観ました。

『桐島部活やめるってよ』
公開当時とても話題になっていましたが、原作者が気に食わなかったので
観ていませんでした。
でもなかなかよかったです。
イケてないグループのイケてるグループへのささやかな下克上という
見方をすると、ちょっと都合が良すぎるかなと思いますが。
高校時代パッとしなかった文化系の男子はこういう話が好きでしょうね。
私がおもしろいと思ったのは「部活」を切り口にした閉鎖されたシュールな
空間の描き方です。

(○○部)っていうのが生徒の記号になっていて、帰宅部ですらも記号であって、
それが同じ体育館の半々とか、屋上とか狭い中でフィールドを分け合ってという、
今になって考えると、学校って実に様々な音や動きが狭い空間にひしめきあった
変な空間だったんだなぁと思いました。
野球部がエイオーエイオー言ってたり卓球部がサー!とか叫んでたり、
その遠くでは吹奏楽部がプープーやってて、演劇部があめんぼ赤いな言ってたり…
こんな他にはない変な空間に3年間もいたことが不思議。

しかし一番タチが悪いのはサブカル女子ぶって神木に理解を示しておきながら、
ちゃっかりイケイケ男子に色目を使い、現実にも落合モトキと噂になった橋本愛。
この子はもし映画の神木くんが将来ほんとに映画監督として成功したら
「私のこと覚えてる?あのときほんとはあなたのことが…」とか言って
すり寄ってきますよ。絶対です。

あとクライマックスの『ごちそうさん』に出てる東出くんがカメラを向けられて
ポロリと涙をこぼすところ。あれはよかったですね。
東出くんは松潤の身長を伸ばして美肌にした感じのイケメンなのに、
1%ほどうちの弟っぽいもっさりした飾らなさが垣間見えるところがいいです。
 

ジブリを映画館で観るなんて何年ぶりだろう。
千と千尋以来かな。風立ちぬを観てきました。

感想を書く前にひとつのお話を。
『美の巨人たち』(the great master of art)←ささやき声で
やっていたクロード・モネの逸話です。
モネはサン・ラザール駅という駅を描いた作品で
生涯のテーマとなる光の表現をつかんだと言われていますが
何日も駅にこもっていたのは、自分のパトロンになってくれた
男性の奥さんを寝取ったからです。
それで修羅場から逃げるために隠れていた駅で天から
光が降ってきた!ヤッタネ!というわけ。
自分の奥さんが病気で死んでしまったら、その遺体を前に
何時間もスケッチしたそうです。
そしてすぐパトロンの奥さんと再婚。
それまでは死んだ元奥さんばっかり描いてましたけど
今度は新しい奥さんを描きまくるようになりましたとさ。

この話を知って、ほんとに「アッチ側の人」ってのは業が深いなぁと
思いました。多分『風立ちぬ』も、零戦作った人で、アンノ監督が
声をやると聞いた時から「アッチ側の人」の話なんだろうなと
思いました。
時代を作ったり、天才を持った人というのはその辺の凡人の
心のキビなんて関係ない次元なんですから。
そういう神経を持っていないと自分の奥さんの遺体をスケッチしたり
浮気から逃げてる間に生涯の絵のテーマ見つけたりしてる場合じゃないんです。


実際観てみたら本当にそうで、ここまで宮崎パヤオ監督が「アッチ側の人間」を
意識して描くとは思いませんでした。
画が美しい美しいと言われていますが、私は美しくは見えませんでした。
よく会社のパソコンがバグるんですけど、その時にいつもと違う変な壁紙が
出てくるんですよ。
 こんなやつ。

風立ちぬで二郎がしょっちゅうトリップする夢の世界は、ウィンドウズが
バグったときに出てくる壁紙にそっくりでした。
なんだかすごく薄っぺらくて不気味なの。
今までの宮崎映画では美しいだけじゃなくてちゃんと古びてたり汚れてたり
グロテスクさがあったりそういうのもひっくるめて美しい画だった気がするけど
今回はやたらとキレイすぎる。そこもいつもと違うなと思いました。


この映画を観て泣く人がいるなら絶対ここだろうという二郎とナホコの
「純愛」ですけれど、それはこれを思い出しました。



お人形みたいな花嫁と生活感のない男。
私の心が腐っているのでしょうか?
多分、ナホコの結核が完治していても二人は7ヶ月以内に破局したと
思います。
しかしパヤオ監督もそれはちゃんとわかっているようで
二人が自分の魅力しか見せない刹那的な「ままごと婚」であることを
強調するような造りになっています。


二郎とナホコだけはその他大勢の貧しい日本国民とは全く違う
才能も金も美貌もある「選ばれた人種」であることをことさら
強調するシーンもたくさんある。
小さい頃から親にも敬語を使ったりものすごく行儀がよかったり
とにかくその辺のじゃがいもみたいな一般人とは違うことをアピール。
そしてIZAMひなのみたいなままごと婚。

なんでここまでしてパヤオはアッチ側の人の話を描きたかったんでしょうね。

ひとつは「美しいものは美しい人にしかみえない」というとっても
意地悪な種明かしを大衆に向かってしたかった。
今まで天才・宮崎パヤオが作ったたくさんの美しい世界は
アッチ側の人にしか見えないものをお金を払う代わりに見せてあげていたものだった。
オレが今までやってきたのはそういうことだったんだよ、ということ。
お前らが見たくても本来見られるものじゃないんだよ、という種明かし。

よく考えてみたら、ファンタジーというベールのおかげで気がつかなかったけど
いつだって宮崎駿は「選ばれた特別な人だけの物語」をずっと描いてきたんですよね。
ナウシカとシータはお姫さまだし、さつきとメイはトトロが見えるし、
キキはほうきで空飛べるし。
でもファンタジーだったから、なんとなくごまかされて自分たちにも身近な
話のように思えていたけど、今回みたいな半実話のファンタジー無しだと
それが際立って愕然とする。

もう一つは、宮崎駿自体も実は完全にアッチ側の人間というわけではないから。
宮崎駿って間違いなく天才ですけど、天才にも歪んだ天才とそうでない
本物のまっすぐな天才というのがいて、宮崎監督は歪んでる方ですよね。
宮崎駿と手塚治虫は歪んでる方。
大友克洋や諸星大二郎はまっすぐな天才。
歪んでる天才はまっすぐな天才を妬んでるから、彼らを不気味な業の深い人種として
イヤミたっぷりに描いたんじゃないのかな。

多くの評論家は宮崎監督と二郎はイコールと言ってますが、私はどちらかというと
宮崎監督もやっぱりどこか、二郎にはなれない部分があるんじゃないかと
思います。


とりあえずそんな感じで感想終わります。
 そういえば先日(11日)、33歳の誕生日を迎えました。

年々誕生日に対する思い入れが薄くなっている気がしていましたが
今年はじめて自分でも当日まで忘れていて、もういい意味でも悪い意味でも
いろいろどうでもよくなってきているんだなぁと思いました。

いつもケチな妹から、私が騒いでいたnooyのTシャツをプレゼントに
もらいました。Tシャツでもかなり高いのに。正直ビビっています。
もったいなくて着れません。


女性の人生というものは、何かを成さんとするには忙しすぎるし、
何も成さないにはヒマすぎる、難儀なものですね。


公開時に話題になっていて観たかったけどダメだった韓国映画『サニー』を
GEOって観ました。

「韓国映画にしては」よかったんですけど、どうしてもやっぱり「韓国映画なので」
気になるところが気になっちゃって手放しで感動!とはなりませんでした。
期待していたんですけどね。

韓国独特のくどくて寒いセンスにノリきれないのはしょうがないにしても、
友情とかノスタルジーとか、世界共通の感動スイッチにはあるにしても、
やっぱりどうしても「韓国」。そこに目をつぶることができないと
楽しめないなと思いました。

ストーリーは中学?高校?時代青春を共に過ごした仲良しグループが
ある事件をきっかけに疎遠になってしまうのですが、偶然主人公が病院で
リーダーだった子が余命いくばくもない状態で再会し、彼女のために
当時の「サニー」メンバーを一人一人探しだしていくというもの。
メンバーは7人もいるんですけど、あの人は今、のような彼女たちのその後の
描き方がどうにもステレオタイプというか、監督が男の人だからか
女性の人生の幸せ・不幸せの見方が単純すぎます。

基本はこの二つ。
・金があるか
・美しいか

金があって美しいのは主人公と、不治の病のもう一人。あとは金があるけど
美しくない人、美しいけど金がない人、金もないしブスという序列がはっきり
しています。美しさにも天然と整形ではランクがまた違ってきます。
思わずこの「女子会カースト」を思い出しました。


まあそういうのも乗り越えて友情が成立しているのがすごいことなのかも
しれませんが、韓国人が「金」と「美しさ」へ絶対的な価値をおいていることが
伝わってきます。
ネタバレになってしまいますけど、結局最後リーダーは亡くなってしまうのですが
女社長でかなりの資産家だったため、金のないメンバーに金をあげますからね。
金をもらってみんな幸せになったのでサニーを歌って踊って大団円。

あともう一つ。
・裏切った奴は絶対に許さない

サニーの元メンバーで仲違いをして、おかしくなっちゃった子が、ある事件を
起こしてそれが元でグループは解散のようになってしまうんですけど、
その子のその後を気にかける描写やセリフは最後まで誰からもひとっことも
出てきません。
30年以上経ってるんだし、ちょっとは許してやろうとか心配する気持ちが
あってもいいものだと思うんですが・・・
そのへんにも韓国の「恨(ハン)」の精神が現れているなと思いました。

テンポはいいし韓国人が大好きなビタミンカラーの画もきれいで飽きることなく
観られましたけど、やっぱり一番大きいのは、男性が思うよりずっと女の人たちは
「今」を生きているものなんですよ。変わっていかなければ年を取れないんですよ、女というものは。
だから女同士の友情はもっと複雑なものなのです。


これは男の人が観た方が感動するかもしれませんね。

あのカヒミ・カリィも憧れたイギリスを代表する小悪魔美女
マリアンヌ・フェイスフルがすっかり年を取ってくまモンみたいになっている
『やわらかい手』を観ました。

DVDの特典映像で最初に『あの胸にもう一度』という彼女の
若い頃の代表作の一部が流れるのですが、峰不二子のモデルになった
と言われるだけのボンキュッボン、素肌にピチピチの革のライダースという
けしからん姿。共演はアラン・ドロンというそんな映像のあとに出てくるのが
くまモンですから悪意を感じました。


ですがくまモンマリアンヌはおばちゃんになっても可愛げがあるんですね。
難病の孫の治療費のため、なんの職業経験も資格もないただのおばちゃんが
いわゆるハンドジョブ、ラッキーホールのようなところで天性の才能を
見出され、押しも押されぬ売れっ子になる話です。
なんといってもおばちゃんの売りはやわらかいそのすべすべのおてて。
あまり仕事もせず、のんびり生きてきた証です。
今になって社会に役に立たない自分の無力さを嘆きながらも、
そののんびり生きてきた証である手を使って稼ぐ道を見つけるのです。

縁の全くなかったソーホーの歓楽街、そこでトーキヨーでラッキーホールを
見てオープンさせたという怪しい初老の店長にナメられながらシコ(試雇)採用される
んですが、入店した途端発揮する驚きの才能に店長もこっそり自ら列に並んで試すほど。

おかげでせっかく親切にしてくれた同僚の嬢がお客を取られて辞めてしまうほど…
自分の腕(というか手)で稼ぐことを知り、おどおどしたおとなしいおばちゃんだった
くまモンが次第に自立をしていきます。
それだけでなく、なんとむさくるしいラッキーホール店長と恋仲に・・・!
そんな展開になると全く思ってなかったので面くらいましたが、これがどうして
すごくよかったです。

店長役のミキ・マノイロヴィッチという俳優さんが、最初はくまモンも毛嫌いしていたのに
だんだんいい感じになってきて、ある日ふと店長と社員という垣根を越えてしかめツラを
していた彼が笑顔を見せた瞬間に多分くまモンは落ちるわけなんですが、
本当にこの俳優さんが笑った瞬間から魅力的に見えてくるように映っています。
しかめツラと笑顔のギャップがいいんですね。



惚れてまうやろ。


店長も過去にいろいろ傷を背負っていて孤独で、キレイな若い女は周りにたくさん
いるけれど、あえて純粋なまま年を取った熟女の魅力に気づいていく。
この二人の心の通い合いはそうなると思ってなかっただけによかったな。

二人がはじめて身の上話をしたときに、こんな会話がありました。
くまモン「どうしてあんな店をはじめたの?」
店長「・・・金を稼ぎたくて」
「金を稼ぎたくて」と訳されていましたが、私のスピードラーニングは
「Because I hate people.」
と聞き取りました。人が嫌いだから。このままの方がずっと意味深ですね。

この二人の初々しい恋は、くまモンと風俗業界のおっさんという組み合わせですが
冒頭で見た若い頃のマリアンヌとアランドロンのラブシーンよりよっぽど
胸を打ちました。


私の職場も4割くらいが「おばちゃん」です。
先日ゴミを捨てに行ったら職場の廊下に使用済み生理用品がぶちまかれていて
うげ!と思って誰も来ないうちに片付けようとしたらあとから来たおばちゃんたちが
「あっらーやぁだ!ちょっと斎藤さん見て!ねえほらそこの袋使って!
そうよそうよさっすがぁー!」とか騒ぎ始めたので物陰に身を隠しました。
このように、年齢に関係なくおばちゃんの行動とそうでない行動があるわけで。
疲れることもありますが、おばちゃんの行動や思考にもいいものと悪いものがありますね。
『やわらかい手』がおばちゃん映画だなぁと思ったのは、そこがとてもよく観察されていた。

くまモンマリアンヌはおばちゃんなので、ラッキーホールの自分の仕事場(穴の向こうのブース)に
サンドイッチやタンブラーを毎日持ってきたり、花を飾ったり絵を飾ったり自分ちの
ようにして若い同僚に呆れられます。
やばい世界の店長もまるで弟か息子のように懐深く接します。
でも彼女にはうぶなところもあり、恥じらいがあり、可愛げがあるいいおばちゃん。
一方でマリアンヌを陰でいじめるおばちゃん仲間という連中がいて、こいつらは
上品ぶっているけど徒党を組んで、あつかましいおばちゃんの悪い面が現れています。


というわけで『やわらかい手』は、難病の孫とか実はどうでもよくて、おばちゃんを
描きたかった映画なんだろうなぁと思いました。
おもしろかったです。

 小さい頃、ジュディ・ガーランドのオズの魔法使いばかり観ていました。
カラーになったりモノクロになったりするヘンテコな映像と音楽に
惹かれていたのですが、今考えるととても意味深な物語ですよね。

これはドロシーという少女が、将来のパートナーを見つけるために出かける壮大な
婚活物語なのかもしれません。
ドロシーは脳みそのないカカシ、ハートのないブリキ、勇気のない
ライオンのゆかいな仲間たちと緑色の魔女(嫁き遅れ)を倒しにきびだんごを
持ってでかけるわけですが、この3人の男性(実際彼らは現実のドロシーの
身の回りにいる男性たちがモデルです)は男の人の要素の全てを表してますよね。

・つまらないけど賢いカカシ
・優しいけど頼りないブリキ
・男らしいけどバカなライオン

こいつらがまるでグーチョキパーのような関係になっている。
果たしてドロシーは男性の持つ背中合わせの長所と短所を、なだめたり
すかしたりしながらオス化してしまった緑色の魔女(独身の女社長)を倒し、
幸せな農村の主婦になるための黄色い道を歩んでいくわけなんですね。

しかしオズの魔法使いの深いところは、それぞれが自分に欠落してると
信じている何かを本当は持ってることを自覚してないところですよね。

緑色の魔女、私は好きですよ。


 友達のおすすめで『夢売るふたり』を観ました。

あ ら す じ

小料理屋を夫婦二人三脚で切り盛りしてたら焼き鳥に引火全勝。
ダンナさん(サダヲ)が捨て鉢になって常連のお客さんと浮気。
その件で控えめで尽くしてきた妻(松たか子)が故障。
歪んだ愛でサダヲに結婚詐欺をさせるようになり・・・


美人なのにえぐい話ばかり撮る西川美和監督です。
やっぱり私はちょっと苦手だなぁ。
おもしろいんだけど、嫌悪感が先に立ってしまった。

桐野夏生先生の小説や毒婦と呼ばれるような女犯罪者には
とても興味を持つし、ある種の救済感を持ったりもするけれど
この映画はただただ不快で・・・
面白いんですけどね。
どちらも人間の穢い部分を取り上げているのになぜなんでしょうね。

理由はよくわかりませんが、やっぱり西川美和監督の描く人物は
ブレまくってるからなんでしょうか。
弱いというかずるいというか。
だからこそ現実的なのかもしれませんね。

『厨房で逢いましょう』っていうドイツ映画も、同じように観ていて
すごく不愉快極まりなくて、他人にすすめてその怒りを共有したくなる
作品でした。

寝取られやスワッピングによって愛を試すという概念が生理的に
受け付けなかったのでした。
フランス人にはなれません。